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オーストラリア人建築家、ロンドン五輪を勝ち取る
ティム・グリッグス
幼少時の事故をダイナミックなキャリアに転じたオーストラリア人建築家ロッド・シェアード。電動鋸で傷を負った建築家がなぜ、ロンドン・オリンピックスタジアムの設計案のみならず2012年ロンドン五輪のマスタープランまで手掛けるようになったのか。
ブリスベンに住む15歳の少年が、事故により人差し指の先端を切断した。「勉強は得意じゃなかったから、実技コースで木工と金属加工を学んでいたんだ」と、シェアードは思い出しながら笑顔で語る。「指を半分失って、実技もうまく出来なくなった。だから学校側は僕を進学コースに移したんだ。多分、僕のことを可哀そうに思ったんだね」
しかしその時を境に少年は勉強に打ち込むようになった。
「16歳の時に作文で賞を取ったんだ。僕が選んだのは建築に関する書籍だった。そのときからずっと建築一筋さ」
あの電動鋸の事故がなかったら、満60歳になるこの建築家は、ロンドンにある世界最大のスポーツイベント専門設計事務所、Populous社のリーダー的存在にはなっていなかったかもしれない。Populous社は現在、世界十数か国で400名余りを雇用している。
8万人を収容するロンドン・オリンピックスタジアムは、産業廃棄物を原料とした低炭素コンクリートや不要なガス管を使うなど、過去に類を見ない持続可能型建築となる予定だ。建物の長期的利用を可能にするため、オリンピック後は建物上部を取り払い、2万5千人収容の施設となる。
ロンドン五輪は勿論のこと、Populous社が過去に手掛けたプロジェクトはどれも輝かしいものばかりだ。サッカーの聖地ウェンブリースタジアムに始まり、ウィンブルドンのセンターコート、2000年シドニー五輪のオリンピックスタジアムまで、世界中のスポーツイベントで歴史に残る建築物を設計している。
シェアードはブリスベンのインドローピリー高校を卒業後、クイーンズランド工科大学(QIT:現在のQUT)に進学。1975年に渡英し、1年に渡りヨーロッパを放浪したのち、ロンドンの老舗設計事務所Howard V. Lobb and Partnersに就職した。
間もなくシェアードはピアリッツ出身のフランス人女性と出会う。この出会いがシェアードに英国在留を決心させた。その後30年あまり連れ添っている妻キャシーとの間には、ピエールとルイスという2人の息子がいる。キャシーは現在Pupolous社の人事を担当。
「フランス語は全くダメなんだ」とシェアードは笑う。「だから家族が僕のことを何と言っていても気にならないのさ」
Howard V. Lobb and Partners勤務時代に、シェアードはスポーツ建築に特化することを思い立った。
「僕はオーストラリア人だから、スポーツは体の一部みたいなもの。それに、建物は日々複雑かつ特殊化しているにも関わらず、当時の建築家は一般的な教育しか受けていないことに気づいたんだ。クライアントの専門性について何の知識もないまま、ただ役員会議で、『お求めのものを何でも設計します』なんて、もはや通用しなくなってきていた。
「ある時、インドアでもアウトドアでもない、新しい空間創造のアイデアが湧いたんだ。もちろん、オーストラリアの『なせばなる』という開拓者精神も助けとなった。
「それに、当時のロンドンの建築家達の間では、社交界への参加や、名門イートン校の同級生から仕事を受注することが当たり前とされていたんだ。もちろん、そんなもの何もない僕には、
他のやり方が必要だった」
当時からLobb and Partnersは、スポーツ施設の設計に多少の経験があった。シェアードはそれらを足場に実績を築きあげ、1980年代には事務所の実質的責任者となった。そして遂に、スポーツに特化するという大きな決断を下したのだ。
「スポーツ以外の案件を断るには、確かに勇気がいったよ。でも、その甲斐はあった。運も味方したんだ。当時、スポーツへの関心はますます高まっていて、僕の事務所はその機運をビジネスに繋げるのに最適なポジションにいたんだ」
1970年代から80年代にイギリスのブラッドフォードやアイブロックスパーク、そしてヒルズボロのサッカースタジアムで相次いで起きた悲惨な事故も、群衆管理を含めた建物の安全設計に対する人々の関心を高めた。そして、シェアード率いるチームがハッダーズフィールドで設計したスタジアムが、スポーツ施設で初めて王立英国建築家協会の金賞を受賞した。
「今思えば、これが転機だった」と、シェアードは語る。「最近になって知ったんだけど、僕の一族はもともとハッダーズフィールド出身なんだ。僕の祖父が架線工事のために1800年代後半にイギリスから家族を連れてオーストラリアに移民したそうだ。奇妙な偶然だよね」
アメリカの設計事務所HOKスポーツと合併した後は、HOKグループのマネジメント・バイアウトの旗振り役として活躍。そして2年半前に、ロンドンの南西部プットニーにPopulous社を設立。オーストラリア人として受け継いだ感性が仕事に大きく影響しているという。
「オーストラリアの煌めく太陽光と鮮明な色彩の中で育って、影響を受けずに済むはずがないだろう?」
―第2の祖国で開催されるオリンピックの会場設計を担当する心境は?
「シドニー五輪のスタジアムを手掛けたときは最高だったよ。祖国に凱旋する気分だった。
「でもロンドンは少し特別なんだ。招致のための立候補ファイルの作成から関わっていたし、開催都市が発表されたときには僕たちもシンガポールにいたんだ。ロンドン開催そのものに僕たちも一役買っているんだよ」
Populous社の設計した施設は、五輪終了後にも使用できるよう、用途に応じて分解や仕様変更ができるようになっている。例えば、スタジアムはスポーツのオフシーズンには完璧な音楽ホールへと姿を変える。
「北京五輪のような派手な演出は、殆どの都市にとって予算がかかりすぎる。斬新で新しいことを低予算でやらないと、五輪招致は非現実的だよ。それには、ロンドンのような自信と誇りに満ちた都市が、まず一歩を踏み出さないと」
―五輪でロンドンはどう変わるのか?
「市中心部から9.6キロメートルの土地を何百エーカーも造成したんだ。この場所は、不潔な下水道や排水溝が通っていて、産業廃棄物で溢れかえっているうえに、第二次世界大戦時の爆弾や砲弾がいまだに残っている、最悪の環境だった。このイーストエンドにかつてのロンドンを甦らせ、10年後にはウェストエンドと同様に人々が訪れる街にするんだ」
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